こんにちは。
宮城県岩沼市の
いわぬま矯正歯科クリニック院長小森です。
2011(平成23)年3月11日、東日本大震災が発生しました。
それから私自身、震災の体験とその震災とどう向き合ってきたかについてご説明させていただきます。
特に興味がない方は、読み飛ばして頂いて構いません。
震災当日
発生当時、私は横浜で勤務医をしていました。
少し遅い昼食を終え、午後の診療の準備をしている最中、揺れが起こりました。
元々横浜は埋立地が多く、地盤が弱い地域です。ビルが激しく揺れ、電車が止まり、普段であれば帰宅に1時間もかからない10㎞くらいの道のりを、歩いて帰る事になりました。
電話がつながりにくくなっていて、宮城県岩沼市の実家と連絡がついたのは夜遅くの事でした。
電気や水道が止まっている事、石油ストーブで暖をとりながら調理している事、妹と姪が自分の家が怖くていられないので実家に戻っている事、数分程度でしたが安堵するには十分な時間でした。
その後、家でテレビをつけたらそこでは信じられない映像と情報が溢れかえっていました。
震災翌日以降
震災直後の週末、休みを利用して実家に戻りました。
もしかして現地で迷惑になる事も考えたのですが、電話で分かってはいるとはいえ家族の無事を自分の目で確認したい気持ちが上回りました。
震災直後は新幹線や鉄道は動かず高速道路が通行止めになっていたため、車で下道をひたすら北上するしか方法はありません。
被災地へ向かう北への流れも渋滞していますし、被災地から関東へ避難する南への流れも渋滞していました。
途中は道路に穴が開いていたり遠回りする事もあって、ほぼ一日かけて宮城県に到着しました。
実家に戻ると、不思議なくらいに変わっていませんでした。電気などインフラはまだ復旧していませんでしたが、普通に温かい豚汁が出てきて、これまた震災前と変わったことはありませんでした。
それから休みごとに何回か宮城県に戻りましたが、当時の勤務先の方々から被災地への物資を受け取らせて頂く事もありました。今でも感謝しかありません。
震災から1か月くらいたった頃、実家に「何が欲しい?」と話したら、「マックのハンバーガー」「漬物」とのリクエストがありました。被災直後は我慢できる物も、少し時間が経つと娯楽や欲が出てくるのかもしれません。コロナ禍の今の状況も同じなのではないでしょうか。
そんな中、高校の友人から同級生が亡くなったとの連絡が入りました。
その同級生は宮城県名取市閖上(ゆりあげ)で救急隊員をしていました。救急車で出動している時に津波に流されたそうです。
何もできなかった自分に悔しさを感じました。
震災3年後
震災後は勤務先を辞め、東京を中心にフリーランスの矯正歯科医師としていくつかの歯科医院さまで診療をしていました。
ですが、日を追うごとに地元に戻りたい気持ちが増えてきました。
震災直後、被災地に何もできなかった自分が情けなく思えたからです。
2014年4月1日、宮城県岩沼市でいわぬま矯正歯科クリニックを開院しました。
地元で仕事をすること、地元で雇用を作ること、地元の方々に喜んでもらえること、様々な目標に向かってただひたすらに走ってきました。
震災から10年を振り返って
震災から10年が経過しました。
単に10年たっただけで、これまでの日々と何も変わりません。
ご自身やご家族が大きな被害にあわれた方に比べたら、私の体験は大した事ではないと思われるかもしれません。
確かに大した事ではなくて、それなのに何かしたいという気持ちばかりで情けない限りです。
2021(令和3)年3月3日、いわぬま矯正歯科クリニックを岩沼市たけくまから岩沼市中央へ移転しました。
これを機に、ひたすら走っていただけの自分は休憩して、少しゆっくりしていければと考えています。
また今年も3月11日になりました。
いつもと同じ一日ではあるのですが、いつもと同じ一日である事に感謝して過ごしていこうと思います。
2021(令和3)年3月11日